『BLEACH』バラガン・ルイゼンバーン
《老い》から《生命》へ
――もし、彼がの思想と出会ったなら
はじめに
老いること。
朽ちること。
失われていくこと。
変わってしまうこと。
そして、
いつか終わること。
『BLEACH』に登場するバラガン・ルイゼンバーンを考えるとき、
そこには常に、
「老い」
という概念がある。
すべては衰える。
すべては朽ちる。
永遠に同じ姿のまま存在し続けるものなどない。
もしその事実を、
「生命の敗北」
として見るなら、
世界とは非常に残酷な場所になる。
生きれば生きるほど、
終わりへ近づく。
持っているものは、
いつか失われる。
どれほど強大な存在であっても、
時間からは逃れられない。
では、
そんな「老い」を象徴する者が、
の思想と出会ったらどうなるのだろう。
ここでバラガンへ、
「老いは怖くない」
と教える必要はない。
「死は美しい」
と説得する必要もない。
変化や終わりを、
無理に肯定する必要もない。
ただ、
一つ別の見方を加える。
変わったということは、それだけ生きたということではないか。
今回は、
かつて「老い」を力として見ていた存在が、
その同じ老いの中から、
生命そのものを見つけていく可能性について考える。
1.「変わらないこと」が勝利なら
老いを敗北と考えるなら、
勝利とは何だろう。
おそらく、
変わらないことになる。
朽ちない。
衰えない。
失わない。
終わらない。
昨日とまったく同じ状態で、
明日も存在し続ける。
それは確かに、
一つの強さに見える。
時間に負けない。
変化に屈しない。
何も奪われない。
だが、
本当にそれは、
「生きている」
と言えるのだろうか。
永遠に同じ場所。
永遠に同じ景色。
永遠に同じ自分。
何百年経っても、
何一つ増えず、
何一つ減らず、
何一つ変わらない。
それは不変ではある。
しかし、
不変であることと、生きていることは同じではない。
からバラガンを考えるとき、
最初に生まれるのは、
おそらくこの問いだと思う。
2.時間は、奪うだけなのか
時間は、
多くのものを奪う。
若さ。
体力。
姿。
環境。
関係。
記憶。
そして、
いつかは命さえも。
だから、
時間というものを敵として見る考え方は理解できる。
しかし、
時間は奪うだけではない。
時間があるから、
経験が増える。
昨日には知らなかったことを、
今日は知っている。
一年前には会っていなかった者が、
今では大切な存在になっている。
何もなかった場所に、
町ができる。
小さかった木が育つ。
文化が生まれる。
技術が変わる。
関係が深くなる。
つまり、
時間は確かに失わせる。
しかし同時に、
時間がなければ、何かが増えることもない。
ここでバラガンが知るのは、
時間には「腐敗」だけではなく、
「蓄積」という側面もあるということなのだと思う。
3.昨日と違うことは、本当に劣化なのか
昨日と違う自分。
それを見て、
「失われた」
と考えることもできる。
しかし、
違う見方もできる。
昨日にはなかった経験を持っている。
昨日よりも多くのものを見た。
昨日よりも多くの者と関わった。
昨日よりも多くの記憶がある。
なら、
変化とは、
単なる劣化ではない。
生きた証拠でもある。
もちろん、
すべての変化が嬉しいわけではない。
失いたくなかったものもある。
戻りたい時間もある。
変わってほしくなかったものもある。
それでも、
「変わった」という事実は、
そこまで時間が続いたということでもある。
バラガンにとって、
これはかなり大きな意味を持つ。
老いとは、
終わりへ近づく証拠であると同時に、
そこまで生きてきた証拠でもある。
4.「朽ちる」ということの意味
朽ちるものは、
弱い。
そう考えることもできる。
しかし、
朽ちるものには、
もう一つの特徴がある。
かつて、そこに存在していた。
建物が古くなる。
それは、
長い時間そこに立っていたからだ。
道が擦り減る。
それは、
多くの者がそこを歩いたからだ。
道具に傷がつく。
それは、
何度も使われたからだ。
古い家の柱に、
無数の傷が残っている。
その傷を、
「劣化」とだけ呼ぶこともできる。
でも、
そこに住んだ者たちから見れば、
その一つひとつが生活の跡かもしれない。
朽ちることは、
存在した時間を消すことではない。
むしろ、
その時間が形として残ることもある。
バラガンがそれを知ったとき、
「老い」という言葉は、
少しだけ違って見えるかもしれない。
5.も、変わり続ける
も、
永遠に同じ姿をしている必要はない。
町が広がる。
新しい店ができる。
新しい文化が生まれる。
外界から何かが伝わってくる。
世代によって、
好まれるものも変わる。
かつて何もなかった場所へ、
誰かが家を建てる。
新しい住民が来る。
新しい関係が生まれる。
そして、
古くなったものもある。
使われなくなったものもある。
姿を変えた場所もある。
もしバラガンが、
そういう世界を何十年、
何百年と眺めたなら。
最初は、
すべてを
「衰退」
として見るかもしれない。
だが、
ある時気づく。
古い店がなくなった後に、
別の店ができている。
昔はいなかった者たちが、
そこで笑っている。
消えたものがある。
しかし、
その場所の時間自体が終わったわけではない。
世界は、失いながら続いている。
6.終わることと、無意味になることは同じではない
何かが終わる。
それは、
その存在が無意味だったということなのだろうか。
一日が終わったから、
その一日は無価値だったのか。
祭りが終わったから、
楽しんだ時間は無かったことになるのか。
誰かとの会話が終わったから、
話したことに意味はないのか。
そうではない。
終わったものでも、
確かに存在した。
そして、
その存在が、
次の何かへ影響していることもある。
誰かから教わった言葉。
昔食べた料理。
もう会えない者との思い出。
閉店した店。
なくなった町並み。
それらは、
現在そのものではない。
しかし、
今の自分を作る一部になっている。
終わったものは、存在しなかったものにはならない。
この考え方は、
の
「生きてきたことを否定しない」
という思想ともよく重なる。
7.王であることも、変わっていい
バラガンという人物を考えるなら、
「王」という立場も避けて通れない。
王である。
支配する。
頂点にいる。
それが、
自己認識の大きな部分を占めている。
では、
で長く生きたとして、
その意識はなくなるのだろうか。
おそらく、
なくす必要はない。
誇り高くていい。
尊大であってもいい。
自分を大きな存在だと考えていてもいい。
ただ、
王という言葉の意味が、
少し変わる可能性がある。
永遠に変わらない地位を守り続けることではなく、
自分が存在した時間の中で、何を残したのか。
そう考えるようになる。
町を支配した。
ではなく、
町がどう変化していくかを見た。
人々へ命令した。
ではなく、
何世代もの営みを知った。
「王」であることが、
不変の頂点ではなく、
長い時間を見届ける立場へ変わる。
それは、
バラガンらしさを失うこととは違う。
8.古いものを知っている者の価値
何百年も生きている者には、
若い者には持てないものがある。
過去を知っていることだ。
昔の町。
昔の文化。
昔の人々。
今では使われない言葉。
昔の出来事。
昔の失敗。
昔の成功。
それらを、
記録ではなく、
自分の記憶として知っている。
これは、
バラガンにとって面白い価値になると思う。
老いた存在は、
「新しいものに負けた古い存在」
ではない。
時間を知っている存在
でもある。
若い者が、
昔のについて尋ねる。
バラガンは、
面倒そうに答える。
「昔はこうだった。」
「その場所には何もなかった。」
「お前が知っている建物は、まだ存在していなかった。」
そんな会話が増えていく。
やがて、
彼自身が、
世界の記憶の一部になる。
9.変化を見下さなくなる
バラガンが最初に変化する場所の一つが、
ここかもしれない。
何かが変わった。
それをすぐに、
「衰えた」
と判断しなくなる。
昔より小さくなった。
でも、
別の役割を持つようになった。
昔より静かになった。
でも、
そこで暮らす者にとっては心地いい。
古い文化が減った。
でも、
そこから新しい文化が生まれた。
変化には、
単純な上下がない。
強くなる変化もある。
弱くなる変化もある。
失う変化もある。
増える変化もある。
だから、
「変わった」というだけでは、
まだ価値を判断できない。
これは、
老いを象徴する者にとって、
非常に興味深い発見になる。
10.生命は、固定された完成形ではない
もし生命に、
一つの完成した形があるなら。
そこへ到達した後は、
変わらないほうがいい。
完成したものを変える必要はないからだ。
でも、
から生命を見ると、
むしろ逆に見える。
生命とは、
変化し続けるものだ。
考えが変わる。
関係が変わる。
身体が変わる。
住む場所が変わる。
好きなものが変わる。
昨日嫌いだったものを、
今日は少し好きになる。
昨日できなかったことが、
今日はできる。
逆に、
できなくなることもある。
そのすべてを含めて、
生命は続く。
つまり、
生命は一度完成して、
その形を永遠に保存するものではない。
完成しないから、生き続けられる。
バラガンにとって、
これは「老い」を理解し直す一つの入口になる。
11.失うことを、好きになる必要はない
ここで、
大切なことがある。
老いや喪失を受け入れることは、
それらを好きになることではない。
大切なものを失えば、
悲しい。
身体が衰えれば、
不便だ。
思うようにできなくなることもある。
戻れない時間を、
惜しく思うこともある。
は、
そこへ
「それも素晴らしい経験だ」
と言う必要はない。
嫌なら嫌でいい。
悲しいなら悲しんでいい。
失いたくないなら、
失いたくないと思っていい。
ただ、
そこで一つだけ、
別の事実を置く。
失ったからといって、それまで生きた時間まで否定されるわけではない。
喪失は、
幸福だった過去を無効にしない。
終わりは、
そこまでの過程を無意味にしない。
12.老いを知る者だからこそ、今を知る
老いを強く意識している者は、
別の見方をすれば、
時間に非常に敏感な者でもある。
今あるものが、
永遠ではないと知っている。
だから、
「今」を軽く扱わなくなる可能性がある。
この景色は、
いつか変わる。
この店も、
永遠ではない。
この関係も、
今と同じ形のままとは限らない。
なら、
今ここにあることを、
今のうちに知っておけばいい。
楽しめるなら、
楽しめばいい。
覚えておきたいなら、
覚えておけばいい。
写真に残す者もいるだろう。
記録する者もいるだろう。
バラガンなら、
そんなことをせず、
ただ記憶しているかもしれない。
しかし、
その態度には、
以前とは違うものがある。
「どうせ朽ちる。」
ではなく、
「朽ちるのなら、今はまだここにある。」
という見方だ。
13.「昔のほうが良かった」と言う日があってもいい
何百年も暮らしていれば、
当然、
気に入らない変化もある。
昔のほうが良かった。
あの建物のほうが良かった。
昔の祭りのほうが好きだった。
今の流行は理解できない。
そう言う日もあるだろう。
それでいい。
生命を肯定することは、
あらゆる変化を歓迎することではない。
むしろ、
好みがあるからこそ、
変化を感じる。
昔を懐かしむ。
今を批判する。
それでも、
今の世界を生き続ける。
数十年後、
今嫌っているものが、
別の誰かにとって「懐かしいもの」になっているかもしれない。
その光景まで見届けたら、
バラガンは少し面白く感じるかもしれない。
14.老いた者が、若い者を笑わなくなる
長く生きた者は、
若い者の失敗を簡単に見抜ける。
「そんなものは昔もあった。」
「どうせ失敗する。」
「まだ何も知らない。」
そう言えてしまう。
しかし、
生命が変化と経験の積み重ねであると理解した後なら、
見方が少し変わる。
若い者が失敗する。
それも、
その者の時間の一部になる。
間違える。
学ぶ。
考えを変える。
成長する。
老いた者は、
その過程をすでに知っている。
だから、
最初から完成を求めなくてもいい。
バラガンが優しい老人になる必要はない。
相変わらず尊大で、
馬鹿にしたような言い方をするかもしれない。
ただ、
「まだ途中なのだ」
と理解している。
それだけで、
見下すことと見守ることの境界が少し変わる。
15.自分自身も、まだ途中である
そして、
この考え方は、
最終的にバラガン自身へ戻ってくる。
何百年生きていても。
王であっても。
圧倒的な存在であっても。
自分もまた、
完成した存在ではない。
昨日とは違うことを知る。
新しいものを知る。
考えが変わる。
気に入るものが増える。
理解できなかったものを理解する。
つまり、
彼自身もまだ変化している。
それは、
敗北ではない。
未熟だからでもない。
生きているから変わっている。
老いを支配する者が、
自分自身の変化を
「生命の証拠」
として見る。
そこまで辿り着けば、
老いという概念は、
かなり違う意味を持ち始める。
16.《老い》から《生命》へ
バラガンについて、
元資料で整理した幸福の形は、
《老い》→《生命を知る幸福》
だった。
これは、
老いを克服することではない。
永遠の若さを得ることでもない。
朽ちることを美化することでもない。
老いを、
生命の反対側に置かなくなることだ。
変わった。
それは、
生きたから。
傷が増えた。
それは、
時間を過ごしたから。
何かを失った。
それでも、
その前には確かに持っていた。
何かが終わった。
それでも、
そこまでの時間は消えない。
そして、
終わった後にも、
また別の時間が始まる。
老いは、生命が壊れていく現象だけではない。
生命が時間を通過した痕跡でもある。
おわりに
朽ちるからこそ、生きた時間がある
バラガン・ルイゼンバーンを幸福にするために、
老いを否定する必要はない。
時間を止める必要もない。
永遠に同じ姿へ固定する必要もない。
彼が知るのは、
もっと別のことなのだと思う。
変化する。
積み重なる。
失う。
得る。
終わる。
そして、
また始まる。
そのすべてが、
生命という現象の中にある。
昔の自分と、
今の自分が違う。
昔の町と、
今の町が違う。
昔の仲間と、
今いる者たちが違う。
それを、
ただ「衰え」と呼ぶこともできる。
けれど、
別の言葉も使える。
生きた。
何百年も変わらなかったから価値があるのではない。
何百年もの間、
世界の変化を見た。
自分も変わった。
何かを失い、
何かを得た。
その時間そのものが、
生命だった。
《老い》から《生命》へ。
死の形だったものが、
そのまま、
生命を理解する入口になる。
それが、
から考えた、
バラガン・ルイゼンバーンの
一つの幸福の形である。
あなたが、生きてきたことを否定しない世界。
永夜世界ノクティラ。
本記事について
本記事は『BLEACH』に登場するバラガン・ルイゼンバーンの人物像・価値観・作中で描かれたモチーフを題材として、/の文化・倫理・思想を考察する非公式の比較研究・思考実験です。
本記事で記述している「であればどうなるか」という内容は、すべて側から行った独自の仮定であり、『BLEACH』の公式設定・続編・公式解釈を示すものではありません。
『BLEACH』および同作に登場するキャラクター・設定等の権利は、それぞれの原作者・出版社・制作会社その他の権利者に帰属します。
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