「死の形」が「幸福の形」へ変わるなら
――もし、彼らが永夜世界ノクティラの思想と出会ったなら
はじめに
『BLEACH』には、極めて印象的な敵対者たちが数多く登場する。
中でも十刃(エスパーダ)は、それぞれが異なる「死の形」を背負った存在として描かれている。
虚無。
犠牲。
老い。
絶望。
孤独。
狂気。
そして、彼らの外側にも、世界そのものを変えようとした者たちがいる。
藍染惣右介。
ユーハバッハ。
彼らを考えていると、一つの問いが浮かんだ。
もし彼らの抱えていたものを「間違い」として取り除かなかったら。
もし彼ら自身を作り替えるのではなく、
その性質を持ったまま、誰かを傷つけなくても生きていける世界へ置いたなら。
その「死の形」は、何へ変わるのだろう。
これは、『BLEACH』の物語の続編を考えるものではない。
各人物が実際にノクティラへやって来たという、Lewd Beast Tribeの公式設定でもない。
『BLEACH』に描かれた人物像を題材として、
「その人物らしさを失わないまま、別の環境で生き続ける可能性」
を考える思考実験である。
1.ノクティラは、悪役を善人にする世界ではない
永夜世界ノクティラには、一つの大きな考え方がある。
「あなたが、生きてきたことを否定しない。」
これは、
「あなたがしたことは全部正しかった」
という意味ではない。
誰かを傷つけたこと。
誰かの自由を奪ったこと。
命を奪ったこと。
それまで無条件に肯定されるわけではない。
本人の心を否定しないことと、その人物が行うあらゆる行為を許すことは別だからだ。
ノクティラでは、
本人の自由と同じだけ、他者の自由も守られる。
だから、
「その怒りを捨てなさい」
とも言わないし、
「その欲望を捨てなさい」
とも言わない。
その代わりに、こう問いかける。
その心を持ったまま、誰かを傷つけなくても満たせる方法はないだろうか。
今回の『BLEACH』についての思考実験も、ここから始まった。
十刃の「死の形」を消すのではない。
その形が、別の環境ではどんな可能性を持つのかを見るのである。
2.ウルキオラ・シファー
《虚無》から《充足》へ
ウルキオラについて最初に考えたのは、
「虚無をなくす必要はあるのか」
ということだった。
何もない。
理解できない。
目に見えないものには意味を見出せない。
そうした感覚そのものを、別人になるほど作り替える必要はない。
むしろ、何もないことを知っているからこそ、
小さな何かを一つずつ見つけていくことができるのではないか。
美味しいと思った食事。
好きだと思った景色。
また会いたいと思った誰か。
誰かに話したいと思った出来事。
そうしたものを、一つずつ自分の中に増やしていく。
最初から「心とはこういうものだ」と教えられるのではなく、
本人自身が時間をかけて発見していく。
そこで虚無は消えない。
むしろ、
何もなかった場所に何かが増えていくことを、誰より鮮明に感じられる感性
へ広がっていく。
元資料で整理した幸福の形は、
《虚無》→《充足》
だった。
何もないことを知っているからこそ、一つひとつの心を発見できる。
それは、「虚無だったウルキオラを否定する幸福」ではない。
虚無を知っていたウルキオラだからこそ辿り着ける幸福なのだ。
3.ティア・ハリベル
《犠牲》から《愛情》へ
ハリベルについて考えたとき、中心にあったのは「犠牲」だった。
誰かを守る。
自分よりも他者を優先する。
それ自体は、ノクティラでも失う必要のない性質だ。
けれど、一つだけ増やせるものがある。
「自分も守られる側になっていい」という選択肢である。
誰かを大切にできる人間ほど、
自分自身をそこへ含めることを忘れてしまう場合がある。
誰かのために生きること。
誰かを守ること。
それらを手放さなくてもいい。
ただ、その輪の中に自分自身も加える。
「私は彼女たちを守りたい。」
だけではなく、
「彼女たちも私を大切にしてくれている。」
という事実を受け取る。
そこで、
《犠牲》は《愛情/自分も愛される幸福》へ広がる。
守る者でありながら、守られてもいい。
与える者でありながら、受け取ってもいい。
ハリベルの強さはそのままに、
幸福だけが一方向ではなくなる。
4.バラガン・ルイゼンバーン
《老い》から《生命》へ
老い。
朽ちること。
変化すること。
終わりへ近づいていくこと。
それらを「敗北」と考えるなら、永遠に変化しないことこそが勝利になる。
けれどノクティラから生命を見ると、別の考え方もできる。
変わること。
積み重ねること。
昨日とは違う自分になること。
何かを失い、その代わり別の何かを得ること。
それらもまた、「生きた」という事実そのものではないか。
永遠に固定され続けることだけが生命の完成ではない。
季節が変わるように。
町が変わるように。
人と人との関係が変わるように。
変化を経験できること自体が、生命の性質でもある。
だからバラガンについて考えた幸福の形は、
《老い》→《生命を知る幸福》
となった。
老いを否定するのではない。
老いを含めた変化そのものを、
「生きてきた時間」として見る。
死の形だったものが、そのまま生命を理解する入り口になる。
5.ノイトラ・ジルガ
《絶望》から《挑戦》へ
今回の考察で、最も面白く変化した人物の一人がノイトラだった。
強くなりたい。
誰より強くありたい。
負けたくない。
その異常なほどの執着を、
「それは間違っている」
として消してしまったら、おそらくノイトラではなくなる。
だから消さない。
ノクティラでも、彼は戦う。
ただし、生死を奪い合う必要はない。
武道。
競技。
修練。
力比べ。
身体能力を競う遊び。
そこでは何度でも勝てるし、何度でも負けられる。
そして、また挑める。
長い時間の中で、
「勝ったことだけが強さではない」
という発見が生まれる可能性がある。
負けても再び立つこと。
昨日より強くなること。
挑み続けること。
誰かの挑戦を認めること。
自分自身が、
「まだ挑戦したい」
と思っていること。
それらもすべて強さである。
元資料では、この変化を
《絶望》→《挑戦》
と整理している。
重要なのは、絶望を忘れるわけではないことだ。
絶望を知っているからこそ、
「どうせ無理だ」
と諦めたくなる者の気持ちも、実は理解できる。
それでも、そんな誰かを見れば苛立つだろう。
その苛立ちの奥に、
かつて自分自身も抱えていたものを見るかもしれない。
だから慰め方も上手くはない。
ただ、
「いいから何か食え」
「まだ終わってねえだろ」
とでも言いながら、隣にいる。
優しくなる必要はない。
ノイトラのままでいい。
強さという言葉の意味だけが増えていく。
6.グリムジョー・ジャガージャック
荒々しいまま、誰かと生きる
グリムジョーについては、もっと単純かもしれない。
彼の荒々しさを消す必要がない。
勝負が好きなら勝負をすればいい。
競争したければ競争すればいい。
身体を動かしたければ、思い切り動けばいい。
武道。
冒険。
競技。
仲間との張り合い。
そうした場所が無数にあるなら、
荒々しいことそのものが共同生活の障害になるとは限らない。
ノクティラで得るものは、
「穏やかなグリムジョーになること」
ではなく、
「荒々しいグリムジョーのままでも、誰かと暮らせる場所」
なのだと思う。
7.コヨーテ・スターク
《孤独》から《静かな繋がり》へ
スタークは、おそらくノクティラへの適応がかなり早い。
一人でいたい時間がある。
騒がしい場所から離れたいこともある。
けれど、本当に誰とも繋がりたくないわけではない。
孤独と、人との繋がり。
その二つをどちらか一方だけ選ばなくてもいい。
誰かと食事をした後に、一人で眠る。
気が向いた日に誰かのところへ行く。
何日も静かにしていた後、また自然に会話へ戻る。
繋がりとは、常に一緒にいることではない。
一人でいる自由が守られているからこそ、
誰かと一緒にいることを自分で選べる。
だからスタークの幸福は、
《孤独》→《静かな繋がり》
となる。
一人でいられる自由と、
誰かといられる安心。
両方を持てる生活である。
8.ヤミー・リヤルゴ
強すぎる力にも、日常の使い道がある
ヤミーは、一見するとノクティラでも問題ばかり起こしそうに見える。
けれど考えてみると、意外と普通に生活へ馴染む可能性がある。
豪快に食べる。
市場を歩く。
力仕事を頼まれる。
巨大な身体や力を、建築や運搬へ使う。
「力が強すぎる」
という性質は、
戦闘しか存在しない環境では破壊力としてしか価値を持てない。
だが、巨大なものを作る社会では別だ。
誰にも持ち上げられないものを運べる。
巨大建築を手伝える。
人手では難しい仕事を一瞬で終わらせられる。
力を弱くする必要はない。
破壊以外にも、力の使い道が増える。
それだけで、同じ能力の意味は大きく変わる。
9.ザエルアポロ・グランツ
《狂気》から《探究》へ
ザエルアポロから知識欲を取ってしまったら、
もはやザエルアポロではないだろう。
知りたい。
確かめたい。
分析したい。
世界の構造を暴きたい。
その欲求自体は消さない。
ノクティラには、研究対象など尽きない。
ソリウス。
異なる種族。
外界との関係。
生命。
文化。
そして、世界そのもの。
長い年月を研究へ使えるなら、
彼の知識欲はどこまでも進み続けるだろう。
ただし、その過程で一つ新しいものを知る可能性がある。
「知ることができる」と「知っていい」は同じではない。
秘密を暴ける。
でも、相手が秘密にしておきたいと思っている。
そのとき、
「合理的だから黙っておく」
だけではなく、
「自分が、その相手の心を大切にしたいと思ったから黙る」
ところまで進めたら。
それはザエルアポロにとって非常に大きな変化になる。
知識欲を捨てたわけではない。
むしろ、
未知そのものだけではなく、
未知を抱えて生きている他者まで研究対象として尊重する。
だから、
《狂気/知識への執着》→《世界を愛する探究心》
となる。
狂気が消えるのではない。
知りたい世界が、もっと広くなる。
10.アーロニーロ・アルルエリ
《強欲》から「自分を探すこと」へ
アーロニーロについて考えたとき、
最も重いテーマになったのは「自分とは誰なのか」だった。
あまりにも多くを取り込む。
多くの記憶や存在を自分の中へ抱える。
その果てに、
どこまでが他者で、
どこからが自分なのか。
それさえ曖昧になっていく。
もし長い時間を与えられたなら、
まず強い後悔に向き合うかもしれない。
過去に行ったこと。
他者を利用したこと。
傷つけた者たち。
それらは無かったことにはならない。
けれど同時に、
「自分が分からない」と苦しみながら、
自分自身を探そうとしている存在がいる。
そして、いつか一つの答えへ行き着く。
自分を探そうとしている、この自分こそが自分なのではないか。
何かを取り込み続けなければ、自分が増えないわけではない。
今日は何を見たのか。
何を好きだと思ったのか。
誰を大切にしたいと思ったのか。
そうした経験もまた、新しい「自分」になる。
元資料では、
《強欲》→《自分を探し、もっと生きたいという願い》
と整理している。
取り込むことによって存在するのではなく、
自分自身として世界と関わっていく。
それもまた、一つの続きを作る方法なのだと思う。
11.ゾマリ・ルルー
敬愛する心まで否定する必要はない
ゾマリは、最初はノクティラと相性が悪い人物なのではないかと考えた。
しかし、考えてみると必ずしもそうではない。
誰かを強く敬うこと。
誰かへ強い愛情を向けること。
それ自体は悪ではない。
その対象が藍染であるからという理由だけで、
その感情まで否定する必要もない。
ノクティラが問題とするのは、
誰を愛しているのかではなく、
その愛情によって他者の自由を踏みにじるかどうかだからだ。
誰かを敬愛する。
その気持ちを持ったままでも、
他者と会話し、共に暮らすことはできる。
ここでも変える必要があるのは「人格」ではなく、
他者との関係の築き方なのだと思う。
12.ドルドーニ・アレッサンドロ・デル・ソカッチオ
強さを求め続けた、その心そのもの
ドルドーニは、ノクティラへかなり早く馴染みそうな人物として考えられた。
強くなりたい。
その気持ちは、そのままでいい。
外界から伝わってきた武術。
異なる文化の中で生まれた戦い方。
それらが混ざり合い、さらに新しい武道が生まれていく。
全部覚えたい。
全部試したい。
全部極めたい。
そんな生活を何十年、何百年と続ける。
そしていつか、
「何のために強くなるのか」
という問いへの答えが少し変わるかもしれない。
強さそのものに価値があるのではない。
強くありたいと願い、そのために歩き続けた自分自身の心に価値があった。
そこまで辿り着いたドルドーニなら、
ノイトラとは非常に面白い競争相手になるだろう。
勝つためだけではなく、
挑み続けるための相手として。
13.シャルロッテ・クールホーン
自己表現を止めなくていい世界
シャルロッテについては、考えれば考えるほど話が早かった。
美しくありたい。
装いたい。
自分を表現したい。
その全部を、
「好きなら好きなだけやればいい」
と言われる文化へ置いたらどうなるか。
おそらく、かなり普通に暮らしている。
装い。
美意識。
身体表現。
衣服。
舞台。
祭り。
ノクティラの文化と非常に相性がいい。
彼について必要なのは「変化」ではないのかもしれない。
自分らしくあることへ、いちいち理由を求めなくてもいい場所。
それだけで十分なのだろう。
14.藍染惣右介
天に立つ必要のない世界
藍染については、少し慎重に考える必要がある。
単純に、
「実は悪い人ではなかった」
とするのは違う。
彼が世界へ抱いた問題意識と、
そのために選んだ手段は分けなければならない。
世界の構造へ疑問を抱くこと。
そこへ反逆すること。
その問題意識そのものと、
目的のため他者を利用し、犠牲にすることは同じではない。
では、藍染がノクティラという別の世界構造を観察したらどうなるのか。
ノクティラにも王は存在する。
しかし、王一人が世界そのものを成立させる絶対的な楔ではない。
ソリウスは循環し、
住民一人ひとりの生が世界へ参加する。
誰か一人の犠牲を前提として世界が維持されているわけではない。
そうした構造を理解したとき、
藍染はある意味で非常に早く納得してしまうかもしれない。
「ならば、この世界で私が天に立つ必要はない。」
支配欲を失ったからではない。
「自分が上へ立たなければならない理由」が存在しないからだ。
そして、そのとき初めて別の自由が生まれる。
誰かを征服しなくてもいい。
世界を作り替えなくてもいい。
圧倒的な知性も自信も洞察力も、そのままでいい。
それでも、
誰かの上へ立たなくても自分の価値は揺らがない。
だから元資料では、
《支配/超越》→《自由/安息》
とした。
何も征服していない一日を、
「退屈ではない」
と思える。
誰にも命令していない夜を、
「悪くない」
と思える。
それが藍染にとっての幸福の一つなのではないか。
15.ユーハバッハ
未来を知らなくても、「また明日」と言えるなら
ユーハバッハについて考えたとき、
中心にあったのは「死」だった。
死への恐怖。
未来。
生と死そのものの構造。
もし、
死を完全に消滅させなくても、
死を恐れて世界すべてを支配しなくても生きられる場所があったら。
その人物にとって、世界はどう見えるのだろう。
ノクティラは、
「死は素晴らしいから受け入れなさい」
と説得する世界ではない。
死を怖いと思うなら、
怖いままでいい。
大切な者を失いたくないなら、
そう願っていい。
けれど、
恐怖があることと、
恐怖によって未来すべてを支配しなければならないことは別だ。
未来を完全に知ることができなくても、
明日何が起こるか分からなくても、
今日の終わりに、
「また明日」
と言える。
その言葉には、
未来を知っている安心ではなく、
未来が続くと信じる安心がある。
だからユーハバッハについての幸福の形は、
《死への恐怖/未来の支配》→《生への信頼/明日への期待》
となった。
死を克服したのではない。
未来を征服したのでもない。
未来を知らなくても、
そこへ進んでみようと思えるようになる。
それは、未来をすべて見通すこととはまったく別の強さなのだと思う。
16.「死の形」は消えなくていい
ここまで考えてみると、共通しているものがある。
ウルキオラから虚無を奪わなくてもいい。
ハリベルから献身を奪わなくてもいい。
ノイトラから強さへの執着を奪わなくてもいい。
スタークから一人でいたい気持ちを奪わなくてもいい。
ザエルアポロから知識欲を奪わなくてもいい。
藍染から自信や知性を奪わなくてもいい。
ユーハバッハへ、
「死を怖がることは間違っている」
と言う必要もない。
今回考えたのは、
欠点を消す成長ではなく、同じ性質が持つ意味を増やす成長だった。
虚無を知る者だから、充足を知れる。
犠牲を知る者だから、愛されることを知れる。
老いを知る者だから、生命を知れる。
絶望を知る者だから、挑戦の意味を知れる。
孤独を知る者だから、静かな繋がりを選べる。
狂気に近いほどの知識欲があるから、世界をどこまでも探究できる。
死を恐れるからこそ、
「今日も生きている」
ということに意味を見つけられる。
つまり、
「死の形」が消えるのではない。
その先に、
「幸福の形」も増えていく。
おわりに
救いとは、「続きを作れること」なのかもしれない
ノクティラでは、
過去は消えない。
犯したことも。
傷ついたことも。
歪んだことも。
絶望したことも。
「本当のあなたはそんな人ではなかった」
ということにもならない。
それらも含めて、その人だった。
では、その人はその先も永遠に同じ場所へ留まり続けなければならないのか。
そうではない。
過去の後にも、続きを作ることができる。
絶望した後にも。
間違えた後にも。
誰かを傷つけた後にも。
自分自身を嫌いになった後にも。
何十年でも。
何百年でも。
その人物自身が新しい使い道を見つけるまで、生き続けることができる。
だから、ノクティラにおける救いとは、
「正しい人になること」
ではないのかもしれない。
自分であることを、誰かを傷つけるためだけに使わなくてもよくなること。
そしていつか、
自分が自分であることを、自分自身の幸福にも使えるようになること。
『BLEACH』の人物たちを通して考えたとき、
私はそこに、
「死の形」のさらに先にあるものを見た気がする。
死の形は消えない。
過去も消えない。
それでも、その先にはまだ続きがある。
その続きを何にするのかは、
本人自身が決めればいい。
あなたが、生きてきたことを否定しない世界。
永夜世界ノクティラ。
本記事について
本記事は『BLEACH』に登場する人物の人格・価値観・作中で描かれたモチーフを題材として、Lewd Beast Tribe/永夜世界ノクティラの文化・倫理・思想を考察する非公式の比較研究・思考実験です。
本記事で記述している「ノクティラであればどうなるか」という内容は、すべてLewd Beast Tribe側から行った独自の仮定であり、『BLEACH』の公式設定・続編・公式解釈を示すものではありません。
『BLEACH』および同作に登場するキャラクター・設定等の権利は、それぞれの原作者・出版社・制作会社その他の権利者に帰属します。
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