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ウルキオラ・シファー「虚無」が幸福を知った、その先へ

『BLEACH』ウルキオラ・シファー

「虚無」が幸福を知った、その先へ

――もし、彼が永夜世界ノクティラの思想と出会ったなら

はじめに

「心」とは何なのか。

それを見ることができないのなら、

本当に存在すると言えるのか。

『BLEACH』に登場するウルキオラ・シファーについて考えるとき、

どうしても「虚無」と「心」という二つの言葉へ行き着く。

理解できないもの。

目に見えないもの。

自分の中に確かにあるのかどうかさえ分からないもの。

それらへ容易に意味を与えない。

そんなウルキオラを、

永夜世界ノクティラへ置いたらどうなるのだろう。

ここで、

「人の温かさを知って明るい人物になる」

としてしまうのは違うと思う。

冷静なところも。

静かなところも。

感情を大袈裟に表現しないところも。

何かをすぐには信じないところも。

そのままでいい。

ノクティラが彼へ与えるのは、

虚無を消して別人へ変えることではない。

むしろ、

何もないと感じていた場所へ、少しずつ何かが増えていく時間

なのではないか。

今回考えるのは、

「これが心か」

と知った、その先。

ウルキオラが、

何度も「これも心なのか」と発見していく人生

についてである。

1.虚無は、治すべき欠陥なのか

まず考えたいのは、

ウルキオラの「虚無」を、

最初から欠陥として扱う必要があるのかということだ。

心が分からない。

目に見えないものを信じられない。

他者が感じているものを、

自分も同じように理解できるとは限らない。

それは確かに、

人との関係の中で衝突を生むことがある。

しかし、

「分からない」という感覚そのものまで悪いわけではない。

分からないのに、

分かったふりをするよりも、

「俺には分からない」

と認識していることには一つの誠実さもある。

だからノクティラで必要なのは、

ウルキオラへ

「もっと感情豊かになれ」

と迫ることではない。

「心というものは絶対に存在するのだから信じろ」

と教え込むことでもない。

分からないなら、

分からないままでいい。

ただ、

世界を生きていく中で、

本人自身が一つずつ確かめていけばいい。

2.「これが心か」で終わらない

ウルキオラについて元資料で特に大切だったのが、

心を知った瞬間を終点にしない

という考えだった。

一度、

「これが心なのかもしれない」

と気づいた。

それで完成ではない。

ノクティラでは、

その先に非常に長い時間がある。

そこで彼は、

何度でも同じ問いへ戻ってくる。

美味しいと思った。

これも心か。

また食べたいと思った。

これも心か。

ある場所を見て、

もう一度ここへ来たいと思った。

これも心か。

誰かの姿を見て安心した。

これも心か。

しばらく会わなかった者へ、

また会いたいと思った。

これも心か。

誰かが喜んでいるのを見て、

なぜか自分も悪くない気分になった。

これも心なのか。

そんな発見が、

一度ではなく何度も続いていく。

最初からすべてを理解している者よりも、

一つひとつを自分で発見していく者のほうが、

場合によっては、

その一つひとつを強く記憶するかもしれない。

3.まずは、とても小さなものから

幸福という言葉を聞くと、

人生を変えるほど大きな出来事を想像してしまう。

でも、

ウルキオラについては、

最初からそんな巨大なものを与える必要はないと思う。

食事。

景色。

休息。

静かな時間。

誰かとの短い会話。

好きな場所。

また行きたい店。

気に入った飲み物。

そうしたものからでいい。

「幸福になれ」

と言われても、

そもそも幸福が何なのか分からないかもしれない。

なら、

言葉から理解する必要はない。

今日はこれが美味しかった。

なら、それでいい。

昨日よりこの場所が気になる。

それでいい。

誰かと一緒に食べる食事と、

一人で食べる食事では何かが違った。

その違いを考えればいい。

そうやって、

名前より先に感覚を増やしていく。

後から、

「あれを人は楽しいと呼ぶのか」

と知ってもいい。

4.ウルキオラは、感情豊かにならなくていい

ここはかなり重要だと思う。

ウルキオラが心を知ったからといって、

突然よく笑うようになる必要はない。

大声で喜ぶ必要もない。

抱きついたり、

騒いだり、

感動するたびに涙を流したりする必要もない。

感情の存在と、

感情の表現方法は別だからだ。

楽しいと思っていても、

表情はほとんど変わらないかもしれない。

誰かを大切にしていても、

頻繁に言葉へ出すタイプではないかもしれない。

それでもいい。

むしろ、

少しだけ視線が変わる。

いつもより長くそこにいる。

いつもなら帰る時間なのに、

まだ席に座っている。

翌日、

また同じ場所へ来る。

そうした小さな行動のほうが、

彼には似合う。

ノクティラで得る幸福は、

「感情豊かなウルキオラになること」ではない。

静かなウルキオラの中にも、確かに好きなものが増えていくこと

なのだと思う。

5.「好きな場所」ができる

これはウルキオラにとって、

かなり大きな出来事ではないだろうか。

世界のどこかを、

ただの場所ではなく、

「自分が好きな場所」

として認識する。

景色が好きなのかもしれない。

静けさが好きなのかもしれない。

空気が好きなのかもしれない。

そこで過ごした記憶が好きなのかもしれない。

理由は一つでなくていい。

むしろ、

最初は理由さえ分からなくてもいい。

なぜかここへ来る。

なぜか落ち着く。

だからまた来る。

何十回も訪れた後、

誰かに理由を聞かれて、

ようやく考える。

そして、

「好きだからだ」

という答えへ辿り着く。

その言葉を自分自身について使えるようになる。

それは、

虚無を消し去るような派手な変化ではない。

でも、

何もないと思っていた世界の中へ、

自分だけの意味を持つ場所が一つ生まれたということである。

6.誰かへ「話したい」と思うこと

さらに先へ進むと、

経験したことを誰かへ話したいと思う日が来るかもしれない。

今日はこんなものを食べた。

こんな場所へ行った。

誰かがこんなことをしていた。

こんなものを見つけた。

普通の近況報告である。

そこに任務はない。

命令もない。

情報を渡す必要もない。

報告義務もない。

それでも話す。

なぜなら、

その相手へ話したいと思ったから。

これは、

ウルキオラにとってかなり重要な心の発見になる。

情報には目的がある。

命令にも目的がある。

だが、

「話したいから話す」

という行為には、

必ずしもそれ以上の目的がない。

それでも人は、

好きなものを誰かへ見せる。

面白かった出来事を話す。

自分が見た景色を、

誰かにも見てほしいと思う。

その理由を、

ウルキオラは少しずつ理解していく。

7.他者の心も、同じように分からないもの

自分の心を一つずつ知っていくと、

次に見えてくるものがある。

他者の心も、自分と同じように完全には見えない。

他人の心を直接見ることはできない。

本人が何を感じているのか、

すべて理解できるわけではない。

これは、

かつてなら

「見えないのだから存在しない」

という方向へ進んだかもしれない。

しかし、

自分自身の中に、

目では見えないものが確かに存在すると知った後なら、

考え方は少し変わる。

自分の心も、

他人から見れば直接は見えない。

それでも確かにある。

なら、

相手にも同じようなものがあるかもしれない。

完全には理解できなくても、

存在を尊重することはできる。

そこで、

「心を理解すること」と

「心を大切にすること」が、

別の行為だと知る。

理解できないからといって、

軽んじなくてもいい。

8.「分からないまま大切にする」ということ

これは、

ウルキオラだからこそ辿り着ける倫理かもしれない。

相手がなぜ悲しんでいるのか、

完全には分からない。

なぜその物を大切にしているのか、

理解できない。

なぜその選択をするのか、

合理的には思えない。

それでも、

相手が大切だと言っているなら、

大切なのだろう。

自分には分からなくてもいい。

分からないものを、分からないまま尊重する。

それは、

何でも共感できることとは違う。

理解できないものへ、

「理解できないから価値がない」

と言わなくなることだ。

そしてこれは、

心というものを一から知ったウルキオラだからこそ、

非常に自然な考え方になる可能性がある。

9.自分の心も、誰かに大切にされている

ここから、

さらにもう一段階ある。

他者に心がある。

その心を大切にする。

そこまでは理解できた。

しかし、

ある日それが逆向きにも成立していることへ気づく。

相手も、自分の心を大切にしている。

自分が何を好きなのか覚えている。

自分が静かな場所を好むことを知っている。

無理に喋らせようとしない。

一人でいたいときは放っておく。

しかし、

戻ってきたときには普通に迎える。

好きだと言ったものを、

誰かが覚えている。

そういう経験を重ねる。

そして、

「なぜそこまで自分へ配慮するのか」

という疑問が生まれる。

その答えの一つが、

「相手にとって、自分が大切だから」

になる。

自分にも心がある。

他者にも心がある。

そして、

その二つは一方通行ではない。

自分が誰かを大切に思うように、

誰かも自分を大切に思っている。

そこへ辿り着いたとき、

ウルキオラの世界はかなり大きく変わると思う。

10.愛情は、「理解してから感じるもの」ではない

愛情というものも、

最初から言葉で理解する必要はない。

誰かを心配した。

また会いたいと思った。

無事だと知って安心した。

自分が好きな場所を見せたいと思った。

相手の好きなものも知りたいと思った。

その人が嬉しそうなら、

自分も嬉しい。

こうしたものを一つずつ経験した後で、

誰かがそれを

「愛情」

と呼ぶかもしれない。

そこで初めて、

「そういう名前なのか」

と知る。

心と同じだ。

名前が先にある必要はない。

本人が経験し、

後からそれに言葉がついてくる。

ウルキオラには、

その順番が似合う気がする。

11.「ありがとう」という言葉

ウルキオラが自然に

「ありがとう」

と言うようになるまでにも、

それなりの時間がかかるかもしれない。

礼儀として言うのではない。

相手が自分のために何かをした。

その行為を受け取って、

自分の中に何かが生まれた。

それを返す言葉として使う。

最初は、

なぜ礼を言う必要があるのか考える。

次第に、

「必要だから言う」

のではなくなる。

自分が伝えたいから言う。

それは短い一言でも、

彼にとっては大きな変化だ。

心というものが、

頭の中で理解する概念から、

誰かとの間で実際に行き来するものへ変わっていく。

12.誰かの幸福を、自分の幸福として感じる

さらに興味深いのが、

自分ではなく他者の幸福である。

自分が何かを得たわけではない。

自分に利益があったわけでもない。

なのに、

誰かが幸せそうにしていると、

それを見ている自分まで満たされる。

これは非常に不思議な感情だと思う。

なぜ、

他者の出来事が自分の心へ影響するのか。

ウルキオラなら、

そこも考えるかもしれない。

でも、

答えはそれほど難しくなくなる。

その人が自分にとって大切だから。

だから、

その人の幸福が自分にも意味を持つ。

そこまで行けば、

かつて理解できなかった「心」は、

一つの感情ではなく、

人と人との間に広がっていくもの

として見え始める。

13.虚無を知っていたことは、無駄にならない

ここまで心や愛情を知れば、

もう虚無など必要ないのではないか。

そう見えるかもしれない。

でも、

私はそうは思わない。

虚無を知っていたことは、

ウルキオラの一部として残る。

だからこそ、

何も感じられない者へ、

無理に感情を要求しない。

楽しくない者へ、

「楽しめ」

と言わない。

誰かを愛せない者へ、

「愛するべきだ」

と言わない。

本人が、

かつて分からなかったからだ。

心を知らなかったからだ。

何もないように思える場所を知っているからだ。

だから、

そういう誰かの隣へ座ることができる。

理解させようと急がない。

変化させようと焦らない。

ただ、

見つかることもある

という可能性だけを知っている。

14.「感じろ」と言わない優しさ

もし誰かが、

「自分には何もない」

と言ったとき。

周囲の者は、

心配して励ましたくなるかもしれない。

「そんなことはない。」

「ちゃんと心はある。」

「もっと周りを見れば分かる。」

でも、

その言葉が届かないこともある。

ウルキオラなら、

もしかすると別の接し方ができる。

分からないなら、

今は分からなくていい。

何も感じないなら、

無理に感じなくていい。

彼自身が、

分からない時間を知っているからだ。

そして、

その時間の先で、

自分が少しずつ何かを見つけた経験もある。

だから、

説得するのではなく、

待つことができる。

これは、

虚無を克服した者にはできない優しさではなく、

虚無を忘れていない者だからできる優しさ

なのだと思う。

15.《虚無》から《充足》へ

ウルキオラについて元資料で整理した幸福の形は、

《虚無》→《充足》

だった。

ただし、

これは虚無を消して充足へ置き換えるという意味ではない。

虚無の上に、

新しいものが増えていく。

美味しいもの。

好きな場所。

会いたい人。

話したい出来事。

大切にしたい誰か。

自分を大切にしてくれる誰か。

そうしたものが、

少しずつ積み重なっていく。

だから充足とは、

最初から何もかも満たされている状態ではない。

「自分の中に、昨日まではなかったものが今日一つ増えた」

と知ることなのかもしれない。

何もない場所を知っているから、

増えたものを見落とさない。

そこが、

ウルキオラという人物にとっての

《充足》なのだと思う。

16.そして、今度は自分が世界を見せる

長い時間の先で、

とても象徴的な変化が一つ考えられる。

かつて、

誰かから世界を示される側だったウルキオラが、

今度は自分のほうから、

誰かへ世界を見せる。

自分が好きになった場所。

美しいと思った景色。

気に入った文化。

一緒に見たいと思ったもの。

そこへ相手を連れていく。

理由を聞かれたら、

難しい説明をする必要はない。

自分が好きだから。

だから、

あなたにも見せたかった。

その時点で、

ウルキオラはもう

「心とは何なのか」

だけを考えている存在ではない。

自分の心を使って、

誰かと世界を共有している。

かつて心を理解できなかった者が、

今度は自分自身の「好き」を使って、

他者へ世界を見せている。

それは、

とても静かだけれど、

非常に大きな変化だと思う。

おわりに

「これも心か」を、何度でも

ウルキオラを幸福にするために、

ウルキオラから虚無を奪う必要はない。

静かなままでいい。

冷静なままでいい。

大袈裟に感情を表現しなくてもいい。

何かが分からないとき、

すぐには理解できなくてもいい。

ただ、

その先で、

小さなものを一つずつ見つけていく。

美味しい。

綺麗だ。

また来たい。

会いたい。

話したい。

嬉しい。

安心した。

大切だ。

ありがとう。

そうしたものを経験するたび、

また一つ、

「これも心なのか」

と知る。

一度心を知って終わるのではない。

生き続ける限り、

何度でも新しい心を発見できる。

そしてやがて、

他者の心だけではなく、

自分の心も誰かに大切にされていることを知る。

そのとき、

虚無だった場所には、

すでにたくさんのものがある。

けれど、

虚無を知っていた自分まで消えるわけではない。

だからこそ、

何も感じられない誰かへ、

無理に心を要求せずにいられる。

《虚無》から《充足》へ。

それは、

何もない自分を捨てることではない。

何もないと思っていた場所に、

自分自身の手で、一つずつ大切なものを増やしていくこと。

それが、

永夜世界ノクティラから考えた、

ウルキオラ・シファーの

一つの幸福の形である。

あなたが、生きてきたことを否定しない世界。

永夜世界ノクティラ。

本記事について

本記事は『BLEACH』に登場するウルキオラ・シファーの人物像・価値観・作中で描かれたモチーフを題材として、Lewd Beast Tribe/永夜世界ノクティラの文化・倫理・思想を考察する非公式の比較研究・思考実験です。

本記事で記述している「ノクティラであればどうなるか」という内容は、すべてLewd Beast Tribe側から行った独自の仮定であり、『BLEACH』の公式設定・続編・公式解釈を示すものではありません。

『BLEACH』および同作に登場するキャラクター・設定等の権利は、それぞれの原作者・出版社・制作会社その他の権利者に帰属します。

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