『BLEACH』ティア・ハリベル
《犠牲》から《愛情》へ
――もし、彼女が永夜世界ノクティラの思想と出会ったなら
はじめに
誰かを守ること。
仲間を大切にすること。
自分よりも、
自分の周囲にいる者たちを優先すること。
それは、
とても強く、
そして美しい生き方にも見える。
『BLEACH』に登場するティア・ハリベルについて考えるとき、
中心にあるものの一つが、
「犠牲」
だと思う。
彼女は、
誰かを踏み台にして自分だけが生き残ることより、
自分の側にいる者たちを守ることを選ぶ人物として見える。
では、
もしそんな彼女が、
永夜世界ノクティラの価値観と出会ったらどうなるのだろう。
ここでハリベルから、
献身を取り上げる必要はない。
「もっと自分勝手に生きなさい」
と教える必要もない。
誰かを守りたいなら、
守ればいい。
誰かを大切にしたいなら、
大切にすればいい。
ただ、
そこへ一つだけ、
新しい考え方を加える。
自分自身も、その“守るべき誰か”の中に入れていい。
今回は、
他者のために自分を差し出すことを知っている者が、
自分もまた愛される側であることを知るまでの可能性について考える。
1.犠牲することは、本当に悪いことなのか
ハリベルについて考えるとき、
最初から
「自己犠牲はよくない」
と結論づけてしまうのは違うと思う。
誰かのために行動する。
自分にできることがあるなら、
手を差し伸べる。
自分が危険を引き受ければ、
仲間を守れる。
そう思って行動すること自体には、
確かな愛情がある。
ノクティラでも、
その心を否定する必要はない。
むしろ、
大切にしていい。
問題になるのは、
他者を大切にすることと、自分自身を軽く扱うことが同じになってしまうとき
である。
「私が傷つけば済む。」
「私さえ我慢すればいい。」
「私は後でいい。」
その選択が、
本人の自由による一度きりの決断なら、
必ずしも間違いではない。
けれど、
それがいつも当然になったらどうなるのか。
そこで、
ノクティラから別の問いが生まれる。
なぜ、守る対象の中に自分だけが入っていないのか。
2.他者を大切にする心は、そのままでいい
ハリベルを幸福にするために、
彼女の性格を逆転させる必要はない。
守る者から、
守られるだけの者になる必要もない。
強さを捨てる必要もない。
仲間を気遣うことも。
危険があれば前へ出ることも。
誰かが困っていれば助けようとすることも。
全部、
そのままでいい。
ノクティラが増やすのは、
新しい選択肢だ。
誰かを守る。
そして、
自分も守られていい。
誰かを大切にする。
そして、
自分も大切にされていい。
誰かへ愛情を与える。
そして、
その愛情を受け取ってもいい。
ハリベルに必要なのは、
献身をやめることではない。
献身しかできない状態から、
少しだけ自由になることなのだと思う。
3.「自分が傷つけば済む」は、本当に一人の判断なのか
自己犠牲には、
一見すると非常に個人的な選択のように見える側面がある。
自分の身体だから。
自分の命だから。
自分が決める。
確かに、
そこには本人の意思がある。
でも、
誰かと深く関わるようになると、
事情は少し変わってくる。
自分が傷つけば、
悲しむ者がいる。
自分が帰ってこなければ、
待ち続ける者がいる。
自分がいなくなれば、
失ったと感じる者がいる。
つまり、
「自分を犠牲にする」
という行為は、
本当は自分だけに影響するものではない。
そこでハリベルは、
一つの事実に気づくかもしれない。
自分の命は、自分だけにとって大切なものではない。
これは、
自分の人生を他者へ譲り渡すという意味ではない。
むしろ逆だ。
自分自身が、
誰かの世界の中ですでに大切な存在になっているという発見である。
4.「守る側」だけでいなくていい
強い者ほど、
守る側に固定されやすい。
自分のほうが強い。
自分のほうが耐えられる。
自分なら大丈夫。
だから前へ出る。
それを何度も続けると、
いつの間にか、
「自分が守られる」という発想そのものがなくなる。
でもノクティラでは、
強い者だからといって、
常に守る側である必要はない。
疲れたなら、
休んでいい。
傷ついたなら、
誰かに支えてもらっていい。
自分一人でできることでも、
「今日は頼む」
と言っていい。
守られるということは、
弱くなることではない。
相手にも、自分を大切にする機会を渡すこと
でもある。
そこへハリベルが気づいたとき、
彼女の人間関係は少し変わると思う。
5.愛情は、一方向でなくていい
誰かへ与える。
守る。
支える。
気遣う。
それは、
ハリベルにとって自然な行為なのかもしれない。
しかし、
愛情は本来、
一方向でなければならないものではない。
彼女が誰かを大切に思うように、
その誰かも彼女を大切に思う。
彼女が仲間を失いたくないように、
仲間も彼女を失いたくない。
非常に単純なことだ。
でも、
「守る側」でいることに慣れた者ほど、
その単純な事実を受け取るのが難しいことがある。
ノクティラでハリベルが知る幸福は、
愛情を新しく覚えることではない。
彼女はすでに、
他者を大切にする心を持っている。
新しく知るのは、
自分が向けているのと同じ種類の感情が、自分へ向けられていること
なのだと思う。
6.「私が守る」から「私たちで守る」へ
考え方が少し変われば、
行動も変わる。
以前なら、
危険があったとき、
自分一人で前へ出たかもしれない。
しかし、
誰かと一緒に生きることを理解した後なら、
別の選択肢が生まれる。
自分だけが背負わなくてもいい。
守りたいものがある。
なら、
皆で守ればいい。
誰かにできることがある。
自分にできることもある。
役割を分ける。
頼る。
任せる。
そして、
自分も助けてもらう。
これは、
責任感を失うことではない。
むしろ、
一人ですべてを背負うよりも、
長く守り続けるための方法になる。
「私が守る。」
から、
「私たちで守る。」
へ。
それも、
ハリベルの幸福の一つだと思う。
7.自分を大切にすることは、仲間を裏切ることではない
自己犠牲的な人物にとって、
自分を優先することには罪悪感が伴うことがある。
自分だけ休む。
自分のために何かを選ぶ。
自分が欲しいものを受け取る。
その瞬間、
「誰かを差し置いているのではないか」
と感じる。
でも、
本当にそうなのだろうか。
仲間を大切にすることと、
自分を大切にすることは、
競合するとは限らない。
むしろ、
自分を壊さないことによって、
長く誰かの隣にいられる。
自分が生き続けることによって、
明日も守ることができる。
だから、
休むことも。
食べることも。
楽しむことも。
大切な人と過ごすことも。
全部、
「誰かを見捨てること」ではない。
自分も仲間の一人として扱うこと
なのである。
8.ハリベル自身が、「犠牲にしたくない存在」になる
元資料のハリベル考察で、
最も重要だと思う部分がここにある。
彼女は、
誰かのために自分を差し出すことを知っている。
しかし、
ノクティラで長く生きれば、
逆向きの感覚を知ることになる。
自分自身も、誰かにとって犠牲にしたくない大切な存在である。
誰かが傷つくことを嫌うように、
誰かも彼女が傷つくことを嫌う。
彼女がいなくなる未来を望まない。
彼女が苦しんでいれば、
助けたいと思う。
つまり、
彼女は守る側であると同時に、
すでに誰かに守りたいと思われている側でもある。
この発見は、
ハリベルにとってかなり大きい。
自分が価値の低い存在だから犠牲になるのではない。
大切なものを守るために、
自分で選んで前へ出ていた。
ならば、
自分自身にも同じ価値を認めることができる。
9.「ありがとう」を受け取るだけでは足りない
誰かを助けると、
感謝される。
ハリベルなら、
その感謝を静かに受け取ることはできるかもしれない。
でも、
ノクティラでの変化はその先にある。
誰かから、
何かをしてもらう。
食事を用意してもらう。
怪我を気遣ってもらう。
休むように言われる。
自分のために何かが準備されている。
そこで、
自分も
「ありがとう」
と言う側になる。
守ったから感謝されるだけではない。
守られたから感謝する。
この往復が生まれる。
愛情とは、
一方が永遠に与え続け、
もう一方が永遠に受け取り続けるものではない。
その時々で、
役割は入れ替わっていい。
10.何もしない時間にも価値がある
ハリベルのような人物にとって、
「何かをしていない時間」は、
最初は落ち着かないかもしれない。
守るものがない。
危険がない。
誰も助けを求めていない。
なら、
自分は何をすればいいのか。
でも、
平穏な世界では、
何もしなくてもいい時間が存在する。
誰かと食事をする。
市場を歩く。
景色を見る。
話をする。
静かに座っている。
それだけ。
誰かの命を守ったわけでもない。
危機を救ったわけでもない。
それでも、
その一日は無駄ではない。
誰かと一緒に生きていた一日だから。
守ることだけが、
愛情の証明ではない。
ただ隣にいることも、
愛情の形になり得る。
11.「守れなかったら」という恐怖
守ることを強く意識する者には、
別の苦しみもある。
もし守れなかったら。
もし間に合わなかったら。
もし自分の力が足りなかったら。
責任感が強いほど、
起きたことをすべて自分の責任として引き受けようとする。
けれど、
一人の存在に、
世界のすべてを守ることはできない。
できなかったことがある。
間に合わなかったこともある。
それでも、
その瞬間まで大切に思っていた事実が消えるわけではない。
ノクティラでなら、
守れなかった自分を罰し続けるのではなく、
悲しむことができる。
悔やむこともできる。
そして、
それでも続きを生きる。
「守れなかった」という一度の結果だけで、
自分の愛情すべてを否定しなくてもいい。
12.自分の幸福を選ぶこと
さらに時間が経てば、
ハリベル自身の「好き」が増えていくかもしれない。
何を食べたいのか。
どこへ行きたいのか。
どう過ごしたいのか。
誰と一緒にいたいのか。
何を楽しみたいのか。
今までは、
「誰かのために何をするか」
が選択の中心だったとしても、
そこへ、
「自分はどうしたいのか」
が加わる。
これは、
利己的になることではない。
他者を大切にする人物が、
初めて自分自身にも一人分の意思を与えることだ。
「皆が望むなら」
だけではなく、
「私もそうしたい」
と言える。
その言葉は、
彼女にとって意外と大きなものかもしれない。
13.愛されることにも、勇気がいる
与えることより、
受け取ることのほうが難しい人もいる。
何かをしてもらうと、
返さなければならないと思う。
自分だけ得をしているように感じる。
申し訳ないと思う。
だから、
「いい」
と断ってしまう。
でも、
相手が本当にそれをしたいと思っているなら。
その好意を受け取ることも、
相手の心を尊重する行為になる。
誰かがハリベルを大切にしたい。
守りたい。
喜ばせたい。
一緒にいたい。
なら、
それを受け取っていい。
愛情を受け取ることは、誰かから何かを奪うことではない。
むしろ、
相手が自分へ愛情を向ける自由を認めることでもある。
14.《犠牲》は、消えなくていい
最終的に、
ハリベルから「犠牲」という性質が完全に消える必要はないと思う。
本当に必要なとき、
誰かを守るために前へ出るかもしれない。
危険を承知で、
自分ができることをするかもしれない。
そこは、
変わらなくていい。
変わるのは、
犠牲だけが愛情の証明ではなくなることだ。
生きること。
帰ってくること。
休むこと。
助けを求めること。
誰かへ頼ること。
幸せになること。
そうしたものも、
大切な者たちへの愛情になる。
自分が生きていること自体を、誰かにとっての幸福として認められる。
そこまで行けたなら、
犠牲という言葉の意味そのものが広がっていく。
15.《犠牲》から《愛情》へ
ハリベルについての幸福の形を、
一言で表すなら、
《犠牲》→《愛情》
になる。
ただし、
犠牲を捨てて愛情へ変わるわけではない。
元々、
犠牲の中に愛情は存在していた。
誰かを大切に思うから、
守ろうとする。
だから本当は、
最初からその核は変わっていない。
変わるのは、
愛情の向きだ。
外側だけへ向いていたものが、
少しずつ自分自身にも向く。
誰かを守る。
自分も守る。
誰かを大切にする。
自分も大切にする。
誰かを愛する。
そして、
誰かから愛されることも受け取る。
一方向だった愛情が、循環するようになる。
それが、
ノクティラでのハリベルの変化なのだと思う。
おわりに
守る者も、守られていい
ハリベルを幸福にするために、
彼女の強さを奪う必要はない。
献身を否定する必要もない。
仲間を大切にする心も。
誰かを守るために前へ出る勇気も。
そのままでいい。
ただ、
一つだけ増えていく。
「自分も、その大切な仲間の一人なのだ」という感覚。
自分が誰かを失いたくないように、
誰かも自分を失いたくない。
自分が誰かを守りたいように、
誰かも自分を守りたい。
だから、
いつも一人で前へ出なくてもいい。
疲れたら休んでいい。
頼っていい。
守られていい。
幸せになっていい。
それは、
彼女が大切にしてきた者たちを裏切ることではない。
むしろ、
その者たちが彼女へ向けている愛情まで、
初めて正面から受け取ることになる。
《犠牲》から《愛情》へ。
誰かのために生きることをやめるのではない。
「誰か」の中へ、自分自身も加える。
それが、
永夜世界ノクティラから考えた、
ティア・ハリベルの
一つの幸福の形である。
あなたが、生きてきたことを否定しない世界。
永夜世界ノクティラ。
本記事について
本記事は『BLEACH』に登場するティア・ハリベルの人物像・価値観・作中で描かれたモチーフを題材として、Lewd Beast Tribe/永夜世界ノクティラの文化・倫理・思想を考察する非公式の比較研究・思考実験です。
本記事で記述している「ノクティラであればどうなるか」という内容は、すべてLewd Beast Tribe側から行った独自の仮定であり、『BLEACH』の公式設定・続編・公式解釈を示すものではありません。
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