『BLEACH』ヤミー・リヤルゴ
強すぎる力にも、日常の使い道がある
――もし、彼が永夜世界ノクティラの思想と出会ったなら
はじめに
力が強い。
とても強い。
強すぎる。
そして、
その力を細かく扱うのが、
あまり得意ではない。
『BLEACH』に登場するヤミー・リヤルゴについて考えるとき、
まず目につくのは、
その圧倒的な身体能力と、
豪快さだと思う。
荒っぽい。
短気。
力任せ。
壊す。
殴る。
吹き飛ばす。
そうした印象が、
非常に強い。
だから、
もしヤミーが穏やかな共同体へ来たなら、
最初はこう思われるかもしれない。
「この力、危ないのではないか。」
確かに、
危ない。
しかし、
ここで一つ考えたい。
強すぎる力は、破壊するためにしか使えないのだろうか。
巨大なものを持ち上げられる。
普通では動かせないものを動かせる。
誰にも運べない重量物を、
一人で運べる。
なら、
それは破壊力ではなく、
そのまま
労働力
にもなる。
今回は、
「力が強すぎる」という性質そのものを変えることなく、
その力へ日常の役割を与えることで、
ヤミーの生き方がどう変わるのかを考えてみたい。
1.「力が強い」は、悪い性質なのか
ヤミーについて考えるとき、
最初に分けておきたいことがある。
力が強いこと。
そして、
その力で誰かを傷つけること。
これは、
同じではない。
巨大な力は、
それ自体に善悪を持っているわけではない。
岩を壊せる力。
それは、
家を壊すことにも使える。
でも、
道を作ることにも使える。
大木を倒せる力。
それは、
森を荒らすことにも使える。
しかし、
危険な倒木を処理することにも使える。
巨大なものを吹き飛ばせる力。
それは、
敵を倒すことにも使える。
でも、
災害時の瓦礫を取り除くことにも使える。
問題なのは、
力があることではない。
その力に、どんな出口が用意されているか
なのだと思う。
2.ヤミーを「器用」にする必要はない
ここで、
ヤミーを幸福にするために、
急に繊細な人物へ変える必要はない。
細かい作業が得意になる。
慎重になる。
何でも丁寧に扱う。
そんな人物にしなくてもいい。
むしろ、
できないことは、
できないままでいい。
巨大な柱を運ぶ。
できる。
小さな飾りを取り付ける。
たぶん向いていない。
なら、
役割を分ければいい。
ヤミーが、
大きな部材を運ぶ。
別の者が、
細かな組み立てをする。
それだけだ。
すべてを一人でできる必要はない。
力が強い者は、
力が必要な仕事をすればいい。
3.建築という「力の使い道」
元資料で考えられていた、
ヤミーのノクティラ生活で特に象徴的なのが、
建築だった。
大きな木材。
石材。
巨大な梁。
普通なら何人も必要になるものを、
ヤミーが持つ。
運ぶ。
置く。
終わり。
本人にとっては、
大したことではない。
でも、
周囲からすれば、
ものすごく助かる。
ここで初めて、
ヤミーの力には、
「敵を倒す」以外の分かりやすい価値が生まれる。
強すぎるからこそ、できる仕事がある。
4.破壊と建築は、意外と近い
建物を作るには、
繊細さだけでは足りない。
時には、
力仕事が必要になる。
地面を掘る。
古い構造物を撤去する。
大きな石を動かす。
柱を立てる。
障害物をどかす。
つまり、
「壊す力」と、
「作るために必要な力」は、
完全に別ではない。
むしろ、
同じ力が、
目的によって役割を変える。
ここは、
ヤミーを考えるうえで面白いところだと思う。
以前なら、
何かを壊した。
それで終わる。
ノクティラでは、
壊した後に、
何かを作る。
あるいは、
作るために壊す。
そうなると、
自分の力が、
世界を減らすだけではなくなる。
増やすためにも使える。
5.「どーん」と運べば、それで仕事になる
ヤミーの面白さは、
あまり難しく考えなくてもいいところにあると思う。
細かい理念。
高度な倫理。
複雑な自己分析。
そういうところから始めなくてもいい。
現場へ行く。
大きなものがある。
「これ運んでくれ。」
と言われる。
持つ。
運ぶ。
置く。
終わり。
周囲が、
「助かった。」
と言う。
それでいい。
本人としては、
「こんなもんでいいのか」
くらいかもしれない。
でも、
それが生活の中で繰り返される。
すると、
いつの間にか、
自分の力が社会の中で役に立っている。
大げさな悟りより、
そういう日常の積み重ねのほうが、ヤミーには似合う。
6.グリムジョーたちとの役割分担
元資料では、
ヤミーが巨大な部材を運び、
細かい作業をグリムジョーたちが担当するような風景も想像されていた。
この構図は、
かなり面白い。
ヤミーだけでは、
全部できない。
グリムジョーだけでも、
大変かもしれない。
でも、
一緒なら早い。
つまり、
力の違いが、
上下関係ではなく、
役割分担
になる。
誰が一番強いか。
それだけではなくなる。
「これはヤミー。」
「これはグリムジョー。」
「これは別の奴。」
そんなふうに、
得意なことが分かれていく。
そして、
一つのものが完成する。
7.完成したものが残る
戦いの後には、
壊れたものが残る。
でも、
建築の後には、
完成したものが残る。
家。
橋。
広場。
店。
倉庫。
道。
それらは、
次の日もある。
その次の日もある。
誰かが使う。
誰かが暮らす。
誰かが店を開く。
するとヤミーは、
街を歩くたび、
自分が運んだものを見ることになる。
「あれ、俺が運んだやつじゃねえか。」
それくらいでいい。
でも、
その建物の中で、
誰かが普通に生活している。
自分の力が、日常として残っている。
これは、
戦闘とはまったく違う感覚だと思う。
8.壊すより、作ったほうが長く残る
ここで、
ヤミーが妙なことに気づく可能性がある。
壊すのは、
速い。
一瞬で終わる。
でも、
作ったものは、
何年も残る。
自分が力を使った結果が、
ずっとそこにある。
これは、
かなり単純だけれど、
非常に大きな経験になり得る。
破壊することが、
急につまらなくなる必要はない。
壊す爽快感もあるかもしれない。
ただ、
作ったものが残る面白さ
を新しく知る。
それだけでいい。
9.市場で歓迎されるヤミー
元資料では、
ヤミーは市場でも意外と歓迎されそうだと考えられていた。
これも、
すごくノクティラらしい日常になると思う。
大きな身体。
豪快な声。
目立つ。
食べる量も多い。
店へ来たら、
かなり賑やかになる。
そして、
商人たちからすれば、
大量に食べてくれる客でもある。
「あいつが来た。」
となる。
注文が増える。
料理を用意する。
ヤミーは食べる。
美味ければ、
分かりやすく喜ぶ。
細かい礼儀は、
得意ではないかもしれない。
でも、
楽しんで食べること自体が、作った側には嬉しい。
10.食べることも、立派な日常になる
戦う。
怒る。
壊す。
それだけではなく、
食べる。
眠る。
働く。
また食べる。
こういう普通の行動が、
ヤミーの人生に増えていく。
特に、
食事は彼と相性がいい。
豪快に食べる。
量を食べる。
美味ければ機嫌がいい。
そういう人物は、
共同体の食卓では案外分かりやすい。
「今日は何食う。」
そんな話が、
一日の楽しみになる。
すると、
人生の中で、
力を使わない時間も増える。
戦わなくても、楽しい時間がある。
11.子どもや動物に好かれるという意外さ
元資料では、
ヤミーが
「なぜか子どもや動物に好かれる」
という可能性も挙げられていた。
これも面白い。
大きい。
怖そう。
乱暴そう。
本人にも、
あまり愛想はない。
それなのに、
なぜか寄ってくる。
本人は、
最初かなり困るかもしれない。
どう扱えばいいか分からない。
小さい。
壊しそう。
だから、
むしろ動けなくなる。
ここで初めて、
ヤミーにとって
「力を出さないこと」も力の使い方になる。
12.強いからこそ、弱く触れる必要がある
巨大な力を持つ者にとって、
難しいのは、
全力を出すことではない。
むしろ、
力を抜くことなのかもしれない。
小さな動物を持ち上げる。
子どもに手を引かれる。
小さな物を受け取る。
そこでは、
最大の力は必要ない。
必要なのは、
壊さない程度に扱うこと。
これも、
一つの修練になる。
筋力を上げる修練ではない。
力を抑える修練。
ヤミーがそれを覚えれば、
強さの意味が少し広がる。
13.「怖くない」と知ってもらう
大きな身体と力を持っていると、
周囲から警戒されることがある。
これは、
本人が何もしていなくても起きる。
ヤミーの場合、
最初はそれを気にしないかもしれない。
だが、
生活を続けるうちに、
市場で名前を呼ばれる。
建築現場で頼られる。
子どもが近づく。
動物が寄ってくる。
そうして、
少しずつ印象が変わる。
「でかくて怖い奴」
から、
「でかくて力があって、たくさん食う奴」
へ。
それくらいでも、
世界との距離はかなり変わる。
14.役に立つことを、誇っていい
ヤミーが、
「人の役に立つ喜び」に目覚めて、
急に献身的な人物になる必要はない。
もっと単純でいい。
「俺がいないと運べねえだろ。」
そう言う。
実際、
その通り。
それを誇っていい。
むしろ、
ヤミーにはそういう形のほうが自然だと思う。
誰かのために役立つことと、
自分の力を自慢することは、
両立する。
俺は強い。だから、これができる。
それでいい。
強さへの自負が、
共同体の役割と繋がる。
15.「必要とされる」と「利用される」は違う
ただし、
ここには一つ大切な境界がある。
強いから、
何でもやらされる。
重いものは全部ヤミー。
危険な仕事も全部ヤミー。
そうなれば、
それは幸福ではない。
必要とされることと、
利用されることは違う。
本人が、
「今日はやらねえ。」
と言える。
疲れた。
腹が減った。
休む。
それでもいい。
役割とは、
その人物を道具にすることではない。
力を使うかどうかも、本人が選べる。
ノクティラで大切なのは、
そこだと思う。
16.何もしない日があってもいい
昨日、
大仕事をした。
今日は、
何もしたくない。
なら、
何もしなくていい。
市場へ行く。
食べる。
寝る。
誰かとだらだらする。
それだけ。
力があるからといって、
毎日何か大きなことをしなければならないわけではない。
ここも、
ヤミーにとって重要だと思う。
「強い者には、強い者としての役割がある。」
それだけになると、
強さが新しい義務になってしまう。
そうではなく、
強いけれど、ただ暮らしてもいい。
17.怒りも、別の出口へ流せる
ヤミーには、
怒りや苛立ちもある。
これも、
完全に消す必要はない。
腹が立つ。
なら、
腹が立っていい。
ただ、
怒った瞬間に、
周囲を壊す必要はない。
身体を使う仕事をする。
訓練する。
競技をする。
大きなものを運ぶ。
場合によっては、
破壊していい場所を作る。
感情も、
力と同じだ。
出口が一つしかないことが問題なのであって、存在すること自体が問題ではない。
18.力の価値は、「誰を倒せるか」だけではない
戦いの世界では、
強さは比較されやすい。
誰に勝てる。
誰より強い。
どれだけ壊せる。
でも、
日常では別の測り方がある。
どれだけ運べる。
どれだけ助けられる。
どれだけ早く作業できる。
どんな場所へ行ける。
どれだけ大きなものを支えられる。
つまり、
強さの価値は、
戦闘の順位だけではない。
暮らしの中にも、強さが必要な場所はたくさんある。
ヤミーにとって、
これは非常に分かりやすい幸福だと思う。
19.「強すぎる」は、欠点ではなくなる
もともと、
強すぎる力は、
扱いづらい。
物を壊す。
周囲を怖がらせる。
普通の生活では邪魔になる。
そう見えることもある。
でも、
世界の側に、
その力を使える場所があれば、
意味は変わる。
大きすぎる身体。
大きすぎる力。
それは、
欠点ではない。
必要な場面が少なかっただけ
なのかもしれない。
ノクティラは、
人物の側だけを変えるのではなく、
世界の側にも出口を作る。
ヤミーは、
その考え方が非常に分かりやすく現れる人物だと思う。
20.破壊しか知らなかった力が、生活になる
最終的に、
ヤミーの変化は、
とても単純なものになるかもしれない。
朝起きる。
飯を食う。
呼ばれる。
現場へ行く。
巨大なものを持つ。
運ぶ。
周囲が作業する。
終わる。
市場へ行く。
また食う。
子どもか動物が寄ってくる。
面倒そうにする。
帰る。
眠る。
それだけ。
世界を救っていない。
偉大な思想へ到達したわけでもない。
ただ、
自分の力が、普通の一日の一部になっている。
それこそが、
ヤミーにとって大きな変化なのだと思う。
おわりに
強すぎる力にも、日常の使い道がある
ヤミー・リヤルゴを幸福にするために、
弱くする必要はない。
巨大な力を奪う必要もない。
豪快さを直す必要もない。
食べる量を減らす必要もない。
荒っぽさをすべて消す必要もない。
必要なのは、
ただ一つ。
その力を、破壊以外にも使える世界を作ること。
建物を作る。
荷物を運ぶ。
障害物をどかす。
誰かでは動かせないものを動かす。
そして、
仕事が終われば飯を食う。
そんな生活がある。
すると、
「力が強すぎる」という特徴は、
問題ではなくなる。
むしろ、
その人だからこそできることになる。
壊すためにしか使えなかった力が、
誰かの住む家を作る。
世界を減らしていた力が、
世界を増やす。
強さそのものを否定する必要はない。
強さに、別の出口を作ればいい。
それが、
永夜世界ノクティラから考えた、
ヤミー・リヤルゴの
一つの幸福の形である。
あなたが、生きてきたことを否定しない世界。
永夜世界ノクティラ。
本記事について
本記事は『BLEACH』に登場するヤミー・リヤルゴの人物像・価値観・作中で描かれたモチーフを題材として、Lewd Beast Tribe/永夜世界ノクティラの文化・倫理・思想を考察する非公式の比較研究・思考実験です。
本記事で記述している「ノクティラであればどうなるか」という内容は、すべてLewd Beast Tribe側から行った独自の仮定であり、『BLEACH』の公式設定・続編・公式解釈を示すものではありません。
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