第10篇 『もののけ姫』
森も人も滅びなくていい世界で、彼らは何をして生きるのか
――もし、彼らがの思想と出会ったなら
はじめに
『もののけ姫』には、単純な意味での「正しい側」が存在しない。
森を守ろうとする者たちには、森を守る理由がある。
人の暮らしを築こうとする者たちには、人の暮らしを守る理由がある。
どちらにも、生きるための事情がある。
だからこそ、両者が衝突する。
森を守れば人が苦しみ、人が暮らしを広げれば森が失われる。
『もののけ姫』に描かれている争いの苦しさは、誰か一人が悪いというよりも、誰かが生きるために、別の誰かが何かを失わなければならない構造そのものにあるのだと思う。
では、もし。
その構造自体が存在しない世界へ彼らが来たなら、どうなるだろう。
森を守るために人を滅ぼさなくてもいい。
人が生きるために森を削り続けなくてもいい。
土地や食料や資源を奪い合わなくても、それぞれが生きていける。
を前提にすれば、そこで初めて別の問いを置くことができる。
「争わなくても両方を守れるなら、そのあと、あなたは何をして生きる?」
第10篇『もののけ姫』で考えたいのは、まさにそこだ。
これは「森と人間が仲良くなりました」という話ではない。
サンが人間を好きになる必要はない。
モロとエボシ御前が理解し合う必要もない。
乙事主が戦士としての誇りを捨てる必要もない。
エボシ御前が開拓者であることをやめる必要もない。
価値観の違いは残っていい。
相手を気に入らないままでもいい。
共存とは、同じになることではない。
違ったまま、互いの存在を消さずに生きられることなのではないか。
その先で初めて、彼ら自身の人生を考えられる。
1.どちらが正しいのか、ではなく
『もののけ姫』では、森にも人にも、それぞれの論理がある。
森に生きる者から見れば、人間による開拓は自分たちの世界そのものを奪う行為になる。
一方で、人の側から見れば、暮らしを作り、働く場所を作り、生きていくこともまた必要な営みである。
だからIFでは、「どちらが正しかったのか」を決めることを目的にしない。
むしろ、
「両方の願いを残したまま、争わずに済む方法があったらどうなるか」
を考える。
森を守りたい。
人を守りたい。
暮らしを作りたい。
自分たちの場所を失いたくない。
こうした願いそのものに、善悪をつける必要はない。
問題になるのは、その願いを叶えるために誰かの生存や自由を奪うしかなかったことだ。
これは、これまでの篇でも繰り返してきた考え方と同じである。
願いを否定するのではなく、願いと手段を分ける。
は、そこへ別の出口を作る。
2.アシタカ――境界が争いにならない世界でも、両方を見る者
アシタカは、もともと一方の側だけに自分を固定しようとしない人物だ。
森を見る。
人を見る。
怒りを見る。
苦しみを見る。
そのどちらかを簡単に「間違っている側」として切り捨てない。
だから、へ来ても彼の核はほとんど変わらないだろう。
彼はへ変わる必要すらないかもしれない。
人の姿のまま、
「今の私も、私だから。」
と生きることがよく似合う。
は、違いをなくして共存させる世界ではない。
人と人外が同じ姿になる必要もない。
森と街が同じ文化になる必要もない。
違ったまま、行き来できる。
違ったまま、両方を見られる。
アシタカにとっては、争いを止めるためではなく、ただ世界を知るために境界を歩く人生が始まるのかもしれない。
**《境界を歩く者》
→《境界が争いにならない世界でも、両方を見る者》**
彼の幸福は、境界そのものがなくなることではない。
境界があっても、それが憎しみや死を生まない世界で、自由に両方を見ることなのだと思う。
3.サン――「人か山犬か」という問いから降りてもいい
サンについて、が最初にすべきことは、おそらく何もしないことだ。
彼女が、
「私は人間じゃない。山犬だ。」
と言うなら、それを訂正しない。
「本当は人間なのだから、人間として生きるべきだ」
とも言わない。
ただ、
「うん。」
と受け止める。
人間か。
山犬か。
そのどちらか一方に分類されなければ存在できないわけではない。
本人が自分を山犬だと思うなら、それでいい。
そして、その答えが何百年後かに変わったとしても、それも本人のものだ。
保存版では、サンが狼系の身体を選ぶ可能性も考えた。
ただし、それは「人間である自分を捨てるため」ではない。
「私は、この姿で生きてみたい。」
そう本人が望んだときに初めて選ぶ。
は傷を治すための救済だけではなく、本人が「この姿で生きたい」と決める自己選択でもある。
そして、人間に対する嫌悪まで消す必要はない。
サンが人間を好きになることを、幸福の条件にはしない。
嫌いなら嫌いでもいい。
距離を取りたいなら取ればいい。
ただし、
「嫌いだから存在してはいけない」
とはしない。
ここでも大切なのは、感情と行為を分けることだ。
共存とは、仲良くなることではない。
相手を好きにならなくても、相手が生きることは認められる。
サンにとっての変化は、
**《人か山犬か》
→《「私は私」》**
なのだと思う。
森の娘であることも。
モロの娘であることも。
山犬と共に生きる者であることも。
そのすべてを持ったまま、それだけではない一人のサンとして生きられる。
4.エボシ御前――開拓をやめるのではなく、もっと難しい開拓へ
エボシ御前から「開拓する力」を奪ってはいけない。
彼女には、人をまとめ、暮らしを作り、既存の形に従わず、新しい場所を作ろうとする強さがある。
へ来たからといって、
「自然を壊してはいけないので、もう何も作らないでください」
では、その人物らしさそのものを否定してしまう。
ならば、開拓の方法を変えればいい。
保存版で考えたのは、
「森を残したまま暮らせる場所を作る。」
という方向だった。
森を全部切り払って土地を得るよりも、森を残したまま人の生活を成立させるほうが難しい。
技術がいる。
発想がいる。
環境との調整がいる。
だからこそ、エボシ御前のような人物に向いている。
**《破壊を伴う開拓》
→《共存する開拓》**
開拓者であることをやめるのではない。
むしろ、より高度な開拓へ進む。
そして、モロと仲良くなる必要もない。
「お前は気に食わん。」
「奇遇だね。私もだよ。」
それでいい。
殺し合わなくても、価値観の違いは残せる。
相手を理解し切らなくても、相手が生きる場所を残すことはできる。
それもまた、共存の一つの形だ。
5.モロ――「森を守る神」でない時間にも、モロは存在している
モロには、大きな役割がある。
山犬の一族の長。
サンの母。
森を守る神。
長いあいだ、誰かを守ることと戦うことが彼女の人生の大きな部分を占めていた。
では、森を守るために戦わなくてもよくなったら、何が残るのか。
一人のモロが残る。
それだけでいい。
保存版では、モロが狼系として人型の身体を持つ可能性も考えた。
これは神から人へ格を落とすためではない。
巨大な狼神の姿を捨てる必要もない。
必要なのは、「モロ個人」として生きる時間を持てることだ。
群れの長ではない時間。
サンの母ではない時間。
森の神ではない時間。
ただモロでいる時間。
強い存在ほど、こうした時間を持ちにくい。
周囲が「あの人なら大丈夫」「あの人が守ってくれる」と考えるからだ。
しかし、では強い者にも休む権利がある。
守らない日があっていい。
何もしない日があっていい。
誰かと旅へ出てもいい。
**《群れを背負う神》
→《一人のモロ》**
これは群れへの愛を捨てるという意味ではない。
愛していても、常に背負う必要はないということだ。
6.乙事主――老いた身体もまた、その人が生きてきた時間
乙事主もまた、長く群れを背負ってきた存在である。
巨大な猪神。
老戦士。
戦いの傷と、長い年月をその身体に刻んでいる。
保存版では、彼と猪系の相性を非常に良いものとして考えた。
ただし、ここでも若返らせる必要はない。
若い身体になることが幸福とは限らない。
老いた身体も。
傷も。
長く生きてきた証も。
本人が残したいなら残せばいい。
視力についても同じだ。
治せるから治す、ではない。
戻したいなら戻せる。
このままがいいなら、そのままでいい。
身体をどうするかは、本人が選ぶ。
そして、もし彼が、
「一度くらい、モロの顔をこの目で見てみたい。」
と思うなら。
そのときは、そのために視力を取り戻したっていい。
世界を守るためではない。
群れのためでもない。
ただ、自分が見たいから。
そういう個人的な願いがあっていい。
**《群れを背負う神》
→《一人の乙事主》**
戦士であることも。
威厳も。
消えない。
ただ、戦わない日にも乙事主でいられる。
7.モロと乙事主――戦の話をしなくてもいい二人
モロと乙事主については、慎重に扱いたい。
二人が過去に恋仲だったという話を、ここでは公式設定として断定しない。
ただ、古く深い縁を持つ二人として、IFの中で恋愛関係を選ぶ可能性を考えることはできる。
その場合も、
「昔恋人だったから元通りになる」
ではない。
長い時間を別々に生きた二人が、もう一度出会い直す。
これまで二人には、戦いがあった。
森があった。
群れがあった。
守るものがあった。
それらを背負わなくてもよくなったとき、初めて戦以外の話ができるのかもしれない。
何が好きだった。
どこへ行きたい。
何を見たい。
そんな、世界の命運とは何の関係もない話。
「われらは戦以外の話を、あまりしてこなかったな。」
そんなことに気づく日があってもいい。
そして、いつか。
「二人でザハラエルへ行かぬか。」
そう誘う。
群れのためではない。
サンのためでもない。
森のためでもない。
ただ、
「あなたと二人で旅へ行きたい。」
それだけ。
もし二人がそういう関係を選ぶなら、
**《世界/群れを背負う関係》
→《二人だけで選ぶ個人的な愛》**
という幸福の形も考えられる。
大きな役割を背負ってきた者ほど、こうした小さな個人的願いが大きな意味を持つ。
8.「守らなくていい世界」は、何もすることがない世界ではない
ここが、第10篇で最も考えたいところかもしれない。
戦う必要がない。
守る必要がない。
生き残るために誰かを倒さなくていい。
だからといって、人生まで空っぽになるわけではない。
むしろ、そのあとに初めて本人の願いが出てくる。
アシタカは、争いを止めるためではなく世界を見るために歩ける。
サンは、「私は何者か」を誰かに決められず、自分で生き方を選べる。
エボシ御前は、破壊を必要としない開拓へ挑める。
モロは群れの長ではない時間を生きられる。
乙事主は老戦士ではない時間を持てる。
平和とは、物語が終わることではない。
戦争以外の物語を始められることなのだと思う。
9.役割の外に、その人自身がいる
これまでこのシリーズでは、何度も「役割」と「本人」を分けてきた。
最強でなくても、その人はその人。
救世主でなくても、その人はその人。
誰かを守っていない日にも、その人には価値がある。
『もののけ姫』でも同じである。
森の神。
山犬の娘。
開拓者。
群れの長。
境界を歩く者。
そうした役割は、人物を形作る大切な一部ではある。
でも、それだけが人生のすべてではない。
役割を果たしていない時間にも、その人は存在していい。
守らない日にも。
戦わない日にも。
何も決めない日にも。
ただ生きていていい。
これは、の幸福論のかなり中心に近い。
10.共存とは、「全員仲良く」ではない
で考える『もののけ姫』の共存は、全員が理解し合い、仲良くなる未来ではない。
それでは人物たちの違いそのものが薄れてしまう。
エボシ御前は開拓者でいていい。
モロは森を愛していていい。
サンは山犬としての自分を大切にしていい。
乙事主には老戦士としての誇りがあっていい。
アシタカは、その両方を見る。
違うままでいい。
距離があってもいい。
交流したくなければ、しなくてもいい。
必要なときだけ協力する関係でもいい。
共存とは、相手と同じになることではない。
相手を好きになることでもない。
違ったまま、相手が生きていることを認められること。
そこまでで十分なのである。
11.「生きろ。」の、その先
『もののけ姫』を考えるうえで、「生きる」という言葉は大きな意味を持つ。
だからこそ、側からはさらにその先を考えたい。
生き延びたあと。
何をする。
どこへ行く。
誰と過ごす。
どんな姿で生きる。
何を好きになる。
何を作る。
何もしない日を、どう過ごす。
生存そのものが目的だった時間を越えて、
**《生き残るための生》
→《自分で選ぶ生活》**
へ。
生きることは、ゴールではない。
生きられたからこそ、その先を選べる。
12.第10篇が、最後の作品篇である理由
このシリーズでは、さまざまな人物を通しての幸福論を見てきた。
強さを求める者。
孤独を抱える者。
世界を憎んだ者。
世界を支配しようとした者。
自分を犠牲にし続けた者。
どん底から立ち上がった者。
自由に世界を走り続ける者。
そして最後に扱う『もののけ姫』では、一人の人物だけではなく、世界そのものに存在する対立を見る。
森か。
人か。
どちらを救う。
ではない。
両方が生きられる方法を作ったあと、彼らは何をして生きるのか。
ここまで考えると、シリーズ全体の問いにもつながってくる。
救いとは、戦いに勝つことなのか。
敵を消すことなのか。
苦しみを過去から消すことなのか。
人格を穏やかに作り替えることなのか。
おそらく、そうではない。
戦わなくても、その人でいられる未来を残すこと。
そして、その未来の中で本人が次を選べること。
それが、における「救い」なのかもしれない。
おわりに
森も人も滅びなくていい世界で
もし。
森も。
人も。
滅びなくていいのなら。
彼らの物語は、そこで終わらない。
むしろ、そこから初めて「本人の人生」が始まるのかもしれない。
アシタカは、争いを止めるためではなく、知らない場所を見るために歩く。
サンは、人間か山犬かという問いに答え続けなくていい。
「私は私だ。」
それだけで生きられる。
エボシ御前は、森を壊す必要のない開拓へ挑む。
簡単だからではない。
難しいからこそ、彼女はやるかもしれない。
モロは、森の神でもサンの母でもない時間を持つ。
乙事主は、群れを率いる老戦士ではない時間を持つ。
そして二人が望むなら、戦でも森でも群れでもない話をする。
どこへ行きたい。
何を見たい。
誰といたい。
そんな、小さな個人的願いを持つ。
それでいい。
『もののけ姫』をから考えたときに見える共存は、「すべての対立が消える未来」ではない。
違いは残る。
嫌いな相手もいる。
価値観もぶつかる。
距離を取りたい者もいる。
でも。
違いが、相手の死を必要としなくなる。
それだけでも、世界は大きく変わる。
そして、戦う必要がなくなったあとに。
静かに。
一人ずつへ。
聞くことができる。
「じゃあ、あなたは何をしたい?」
すぐに答えられなくてもいい。
長く誰かを守ってきた者ほど、自分自身の願いが分からなくなっているかもしれない。
には、考える時間がある。
旅をしてもいい。
休んでもいい。
何もしなくてもいい。
誰かと話してもいい。
そしていつか。
「ここへ行きたい。」
「これを作りたい。」
「この姿で生きたい。」
「あの人と一緒にいたい。」
そんな願いが生まれる。
それは、世界を救うほど大きな願いではないかもしれない。
でも。
本人の人生にとっては、それで十分に大きい。
**《境界を歩く者》
→《境界が争いにならない世界でも両方を見る者》**
**《人か山犬か》
→《「私は私」》**
**《破壊を伴う開拓》
→《共存する開拓》**
**《群れを背負う神》
→《一人のモロ/一人の乙事主》**
そして作品全体としては、
**《どちらかが生きるための争い》
→《どちらも生きたあと、自分の人生を選ぶ世界》**
へ。
救いとは、戦いを終わらせることだけではない。
戦いが終わったあとにも、その人自身の人生が残っていることなのかもしれない。
そして。
その人生に。
まだ続きがある。
そのこと自体が。
が彼らへ渡せる幸福なのだと思う。
あなたが、生きてきたことを否定しない世界。
永夜世界ノクティラ。
本記事について
本記事は『もののけ姫』に登場するアシタカ、サン、エボシ御前、モロ、乙事主らの人物像・価値観、および自然と人間、境界、共存、群れ、役割といったモチーフを題材として、/の文化・倫理・思想を考察する非公式の比較研究・思考実験です。
本記事で記述している「では森と人の双方が滅びずに共存できる」「サンが本人の意思によって狼系となる可能性」「エボシ御前が森を残したまま暮らせる場所を開拓する」「モロや乙事主が人型の身体を得て、群れを背負わない個人としての時間を持つ」「モロと乙事主が個人的な愛情関係を選び直す」といった内容は、すべて側から行った独自の仮定であり、『もののけ姫』の公式設定・続編・公式解釈を示すものではありません。
特に、モロと乙事主が過去に恋愛関係であったという点について、本記事では公式設定として断定していません。本記事内で扱う二人の恋愛的な関係性は、古く深い縁を持つ二人という要素をもとに、側の思考実験として独自に設定したものです。
また、本記事は作中で描かれた争いや加害、自然破壊等を肯定・正当化するものではありません。森を守ろうとする願い、人の暮らしを守ろうとする願い、開拓する力、群れを背負う責任といった人物それぞれの性質を否定せず、争いや犠牲を必要としない環境に置いた場合、それらがどのような生き方へ変化し得るかを考察しています。
『もののけ姫』および同作に登場するキャラクター・設定等の権利は、それぞれの原作者・制作会社その他の権利者に帰属します。
および本サイトは、『もののけ姫』ならびに各権利者とは関係ありません。
LEWD BEAST TRIBE